水曜に借りてきた攻殻SACのDVDを何度も何度も繰り返し見ている。
寝るときも流しっぱなしにして、子守唄代わり。
何度でも見るに耐えるクオリティを有しているということだが
ストーリーが複雑なもので、見るたびに「あっ、そうだったか」という発見がある。


このDVDってフランスでは発売されてるのかな。
ゴースト・イン・ザ・シェルはフランス語版を見たことあるけど。
いつかフランス語でSACについて書けたらと思っている。


ゴーストをネット上に上げて個を特定し続けることができるのか?
ブログを書いているとこの問題について時々考えたりする。
紙媒体だったりスタンドアローンのPCのハードディスクなどに記録された日記は
他人に見られることを前提にしていない閉じた記録である。
それに対してブログは、他人に開かれた個人の精神活動の記録である。
ブログの書き手である物理的な個人を知らなくても、読む者は書き手のイメージを脳内に描き出す。
それは、ショウウィンドウに映っている自分が、街行く人々によって見られているようなものとでも言えるだろうか。
それに対して前者は、バスルームの鏡に映った自分である。
一たん他人に見られた自分の画像は、それを見た個人の脳の中に一個の人間として認識される。
公開された外部記憶装置にせっせと自分の行動記録、精神活動の記録を蓄積していくことによって
そこに自分の像を描き出していく。
情報量が多ければ多いほど忠実な自分の像になっていくだろう。
さて、問題はブログ筆者が肉体的に死亡して後のことである。
筆者が死亡したとしてもブログのログは残り続けるだろう。
パスワードを知っている遺族などがブログを閉鎖するか
サービス提供会社が倒産するか
ネットワークインフラが天災地変もしくは暴力的社会運動などによって物理的に破壊されない限り。
そうして残り続けるブログは、ネットを通り過ぎる人たちに個人として認識され続けるだろう。
もっとも、そのブログにコメントを書いてもレスがつくことはないわけだが。
などなど


妙に理屈っぽくなっているけども、すっきり理論的な決着をつけるところまでいけないのが自分だなあ。
だからフランス語で書かなくっちゃ。