橘かがり著「判事の家」読了。
判事の家
松川事件裁判で最後まで有罪判決にこだわった最高裁判事の孫にあたる主人公が
事件に関係する人たちとのかかわりを通して、
社会の中、歴史の中での自身の位置、役割を見出していく。
松川事件といえば
戦後のいわゆる「黒い霧事件」であり
GHQによる謀略事件であったというのが定説であるが
小説家広津和郎氏を中心とする運動によって無罪が無罪が勝ち取られた冤罪事件でもある。
私自身は、広津氏の活動がドレフュス事件におけるゾラの活躍とだぶるところがあり
松川事件には大いに関心を持っている。
この事件自体がGHQ謀略、冤罪、作家広津氏の活動など
非常に多岐にわたって書かれるべき内容のある事件であるだけに
そういうところに関心の比重が高い私からすれば
少し物足りないところもあったというのが率直な感想である。
しかし、未だに冤罪がはびこり、最近では死刑を嘆願する署名が集められたりする今の日本において
人が人を裁くということについて、どういう態度をとるべきか、大いに考えさせられる作品である。
松川事件で死刑を宣告された元被告人が、主人公に語るシーン。

死刑囚の間でも普通の会話を交わしたり、厚い友情が芽生えたりすることがあったに違いない。その人々が一人、また一人と、処刑されていくのを、この人は目撃してきたのだ。亜里沙のそんな思いを見透かすようにHは語り続ける。
「十年の間に、この人は無実だなと思われた人が、その中で少なくとも二人はいました。その人たちをずっと見つめてきて、冤罪をどうにもはらせない重みの中で、人間をあきらめ、生活をあきらめた姿が、思い浮かぶんです。無実だということを叫んではいたけれども、そこには世の中なんでウソッパチだらけだという呪詛があったんです。人間に対して、社会に対してツバを吐きかけてやりたい気持でいながら、やはりその人間たちに対して無実を訴え叫んでいた姿は、悲しい姿として痛烈に印象に残っている。虚偽に虚偽を重ねられて死刑にまでもっていかれると、個人の力ではどうにもならないことを、教えられる姿でした。」


最近の裁判関連のニュースを見ていると、心なしか無罪判決が増えているように思う。
また、検察が取り調べのDVD録画を実施し始めたり、取調べ過程の透明化がようやく実現しつつある。
映画「それでも僕はやってない」の影響なのかなとも思う。
しかし、先日も法相鳩山が4人の死刑執行にサインをしている。
来年からは裁判員制度が始まるが、裁判員となったらまさに人を裁く当事者となる。
これは選挙で1票投じることよりも、ずっと直接的に社会と関わる行為であり
それだけの覚悟が一人一人に求められるだろう。
そんな時代に、この作品はタイムリーであり、広く読まれるべきだと思う。