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新倉修編「裁判員制度がやってくる―あなたが有罪、無罪を決める (GENJINブックレット (36))」読了。
2003年発行の本で、まだ裁判員制度が正式に法制化されていないころなので
ちょっと古いのですが、勉強になりました。
先日も書きましたが、
裁判員制度はほうっておいても形骸化するだけだと思います。
それをなんとか実質のあるものにしようとがんばっている方たちがいらっしゃいます。
この本を編集した「市民の裁判員制度をつくろう会」がそう。
現在は名称を変更して「市民の裁判員制度・つくろう会」
「家裁の人」の著者、毛利甚八氏も代表世話人をされているようです。
今の日本の裁判官はもともと、おおむね大学を卒業する前後に司法試験に合格した秀才型の若者ばかりです。そして、同じようなタイプの先輩裁判官のもとで、仕事を通じて実務を学んでいきます。
彼らは裁判官に任官した後は裁判所の外の価値観に触れる機会を持たないまま、裁判所という「世間」でだけ有用な常識を身につけていく。たとえば検察官は裁判官にとっては、同じ司法試験に通った弁護士になる人々に比べれば文化的にも組織的に近しい存在です。組織論からいえば、仲良くしておいたほうが仕事がスムーズに進められます。
そういう組織人としての判断が裁判の席で事実認定に影響を与えることになると大変困ったことですが、先に述べたえん罪事件をみると、そういう組織人としての判断が判決を支えているように見えます。
裁判員制度の導入という劇薬は、そうした裁判所の風土や裁判官の常識にゆさぶりをかけるものなのです。
もちろん、キャリア裁判官の人々にとって、このような批判は心外なものでしょう。彼らは自分たちのプライドを賭けて、自分たちの職域をあらされまいと裁判員制度を骨抜きにしようとすることでしょう。
そうそう、だからこそ、市民のための制度として
自分たちのものとしていく努力が求められると思います。